funukekunの日記

日々のつぶやきを書きます

功利主義と反出生主義の関係に関して

 反出生主義は、出生という行為を非難する論である。
 功利主義は、最大多数の最大幸福を求める論である。
二つの論の中には一見つながりのないように見えるが、私はこの二つには根本的な部分でつながりがあるのではないかと推察する。
 反出生主義というのは、先ほども言った通り、出生を否定する論だが、なぜこんな主張が通るのだろうか。実際、出生を否定してしまえば、人類は衰退の一途をたどっていくしかなくなってしまう。にもかかわらず、反出生主義の人は一定数存在する。その理由は、生まれてこなければいいことも悪いことも起きることはないからだ。人は一度生まれてしまえば必ずと言っていいほど苦痛を味わうことになる。生まれてこなければ、それはないのだ。確かに、生まれてきて幸せなこともあるかもしれない。しかし、幸せであることを「良い」、苦痛を味わう事を「悪い」としたならば、生まれてきて幸せである(良い)が、苦痛を味わう(悪い)よりも生まれてこずに幸せがない(悪くない)し苦痛もない(良い)の二つ、どちらの方が良いかは明確だろう。よって、人は出生するべきではない。ということだ。これならば納得もいくだろう。
 では功利主義とはなんだろうか。功利主義は「最大多数の最大幸福」を掲げた論である。ここに一つ例を挙げよう。有名なトロッコ問題の話だ。トロッコが暴走してしまい、このままいけば5人の作業員が死んでしまう。しかし、あなたは今線路を切り替えるスイッチの近くにいる。スイッチを切り替えれば、別の1人の作業員が死ぬことになるが、5人の作業員は助かる。あなたはスイッチを押すべきだろうか?という話だ。これを功利主義的観点で見てみよう。まずは6人全員が幸福な場合である。そしたらばあなたはスイッチを押すべきだ。そうした方が結果的に幸福量の総数が大きくなるからだ。次に、5人の作業員は全員希死念慮に苛まれていて、1人の作業員が幸福な場合だ。これならば、スイッチは押さなくていい。5人の作業員は不幸なのだから、別に彼らが死んだって幸福量が減少することはない。簡単に言ってしまえばこんなことだろう。功利主義は「結果的に最大の幸福を得られる方法」を重視する。
 さて、本題に戻ろう。反出生主義と功利主義のつながりに関してだ。ここまで読んでいれば、もしかしたらわかったかもしれない。両方の論に共通している項は、「不幸を減らし、幸福を増やそうとする」ということだ。功利主義には明白にそれが現れている。反出生主義は、これから生じてしまうかもしれない不幸の種を事前に排除しようというものだ。この二つは通じている。恐らく、反出生主義が功利主義的考えから生まれているためであろう。
一見すると繋がりの内容に見える二つのつながりは興味深く、面白いものである。

 注意:この文章は私の中の理解に留まった文章である為、正しい事を言えているのか定かではありません。クロスチェックの方を自らでお願いします。