funukekunの日記

日々のつぶやきを書きます

「不明」の美学

よく正月に流れている「さくら」は作者不明の作品である。単純なメロディーとどことなく柔らかさのある歌詞には、日本独特の美しさを感じる。ただ、この曲の美しさを語る上でこの曲の作者が不明であるが故の美しさを感じないだろうか。なぜだろう。
 人はわからないものに何か神秘的な物を感じがちである。
雷の仕組みが分からなかったとき、人類は神を作り出した。雲の上には誰かがいて、それが雷を落としているというのだ。現代にそんなことを言う人はいない。なぜなら原理が解明されてしまったからだ。解明されたが故に、雷の神秘は失われてしまった。原理が理解できないうちには、風神雷神などの美しい美術作品も生まれていたのに。わからないことが消えると同時にその物体の美しさも消え失せる。
 逆をいえば、未だに理解のできないものは美しく解釈され続けている。
不明は人類にとって不快な感情であるのだ。だからこそ、毎日どこでも研究が盛んに行われ、発見された事実は賞賛される。もし事実が発見されないのなら、人類は解明できない不明を美に昇華して飲み込んでいくしかないのだ。
私は雨の匂いが好きだった。でもあるときから何も思わなくなった。雨の匂いが地面に住む微生物が発する有機物をおびき寄せる匂いだと知ったからだ。特別だった雨の匂いの原理を知ってしまった瞬間、絶望に近い落胆を経験した。
 分からないことは恐ろしいが、時に世界を美しく彩る。子供の時より世界が輝いて見えなくなったのは、知ってしまったからだ。日々の発見は徐々に世界の輝きを汚していく。知識に美しい世界が飲み込まれていく。元の美しい世界に戻すことは出来ないし、それを拒否することは叶わない。知識を仕入れなければ生きていけないからである。知識のない美しさを守り抜くには、人生を捨て去らなければならない。
 その点、美術作品、特に歌に関する不明は知識があっても取り除かれることがない。だからいつでも新鮮な美しさを感じられる。文献が見つかるとかそういう事がなければ、ずっとわからないままだ。
だからこそ「さくら」はずっと美しくいるんじゃないか。