funukekunの日記

日々のつぶやきを書きます

なぜ自分はAIでないのか

 私はなぜ自分がAIで無いと思って生きているのか。以前の話で、私には文章を書く脳しか無いと言う事を書いたと思うが、考えてみればそれはAIと同じではないか?問いかけられた疑問に対し答えを作成して文章を生成する。たまに手が止まってまた考え直す。AIも文章の生成中に少しの間止まる事がある。他人に教わった知識から絞り出して会話をする。まさに今流行りのAIと同じではないか。

 じゃあどうして私はAIでないと言えるのだろうか。感情に関する根拠は非常に脆い物で使い物にならないため根拠にしない事ととする。

 一つ、私には体がある事だ。現在文書を生成するAIの多くは体を持たない。体を持っていたとしても歩きながらの会話などは難しい。さらに私の体は常日頃から成長し続けているそれは大きな根拠の一つであろう。もし私がAIであるからば、私は素晴らしい発明品となるだろう。自立歩行、自然な会話、表情、言葉の抑揚、成長、涙を流す、状況に応じて笑うなどいったことができるロボット。欠陥があるとすれば、学習にかかる時間が長いことと死ぬ事くらいであろうか。いや、もしかしたら死なないのかもしれない。わたしが死だと思っているものはあくまでもプログラムの終わりというだけで、再起動すれば赤ん坊の私がまた同じ人生を歩み出すのかもしれない。

 二つ目にはあまりにも低機能である事だろう。私は文章を生成する際にせいぜい600km程の円の中で得られた情報のみに頼って文章を生成する。しかし現在のAIは世界中からの情報を得て、吟味して文章を生成する。ここにあるAIと赤ん坊の私がいるとしよう。赤ん坊の私は、勉学に対する知識は全くないが一般常識は全てわかっているし、日本語と多少の英語は理解できているとする。さて、この2人にトマトに関する情報を与えよう。私は日本中の人に聞いて回る。AIは世界中の人に聞いて回る。さて、最終的にトマトに関しての文章を生成しろと言った時、どちらの方がより多く、正確な情報を集めてくるだろうか。今設定した条件によれば、AIの方が多くの情報を集めてくるのは明確だろう。AIの強みは言語の壁が存在しない事と、移動や聞き込みに時間がかからない事、与えられた知識を正確に記憶しておけることだ。私にはそれがない。言われた事を覚えておけと言われても思考の端にそれを置いてその内にどこかで忘れてしまう事が多々ある。洗濯機を回して干そうと思い、洗濯機を回すがそのあとお茶を入れて本を読んでいるうちに洗濯物を干すと言う事項を忘れ、風呂に入ろうと洗濯物を投げ込もうとしたところでようやく気がつく。AIであればこんなヘマはしないだろう。必要事項の忘却は人間にのみ許されたものではないか。もしそんな事を忘れるAIを作る人間がいたら理由が不可解だ。こんなものを何故作ったのか聞いてみたいものである。話を戻そう。AIは忘却をしない。私は忘却をする。私がAIであったら私はとんでもない低機能の失敗作だ。データであったらすぐに消されている存在であろう。つまるところ私はAIでないと言えるのではないか。

 以上二つのが私がAIでなく人間であると言う根拠だ。発明品としては身体的に高機能過ぎていて、知能的には低機能すぎる。いつかこんな根拠も役に立たない、「ほぼ人間」なAIが発表されるまではこの根拠に基づいて私は人間でいられる。と思いたい。