funukekunの日記

日々のつぶやきを書きます

人類は自傷的

「恋をする」という行為において、人類は非常に自傷的だと思う。

恋をして、生涯を共にする人間を見つけようとする行為は動物としての本能であり、全くもっておかしい事ではない。その上での失恋で悲しむことも自然な事だ。

私が注目しているのは、所謂「推し活」のようなもののことである。絶対に実らない筈の恋をして、それが実らなくなった瞬間酷く傷ついたような顔をして嘆く。知っていた事実をまるで知らなかった様に「裏切られた」と平気で言う。そんな人がインターネット上には沢山存在している。おかしいとは思わないだろうか。それだけ傷つくなら、初めから恋などしなければ良いのに人類は「推し」に恋をし続けている。

この行為と、動物の本能的な恋との差異はその行為の合理性にあるのではないか。

「推し活」では、確率にしたら何億分の一にも満たない可能性に、何万人の人が夢を見ている。そして、同じ夢を見ている人間を、自分の方が上なのだと主張し、蹴落としていく。その一番上に立ったとして得られる物は「推し」の愛という訳ではないのに、彼らはそれが見えないフリをして日々を「推し」に捧げている。やっている行為と、それに見合った結果が得られていない。これは非合理的だ。

一方で、「推し活」でない恋は確率こそ「推し活」と同じだが、同じ夢を見ている人は多くても数人程度だ。だから蹴落とし合いなんかも多く起きることはないし、あったとしても頂点に行けば相手からの愛を得られる。これなら、やっている行為と結果が見合っているため合理的と言える。

ではなぜ人間は非合理的な事に時間を捧げるのか。恐らくそれは、恋によって得られる甘美な感覚を「推し活」は簡単に摂取できる事にある。恋は非常に難しい。まず相手を見つけなくてはならないし、相手が振り向いてくれる様に試行錯誤してようやく得られる物が恋だ。だが「推し活」はどうだろう。「推し」は多くの場合謎が多い。声だけの情報しかなかったり、もしくはそれさえなかったりする。その代わり「推し」は、人々が想像して補完する為の器を与えてくれる。現実の恋は不都合が生じるが、妄想上の恋に不都合など存在しない。「推し活」は、現実よりもより簡単に恋の甘美な感覚を与えてくれるのだ。金をかければ掛けるほど、そのリアリティは段々と増していく。彼らの目的は「恋」ではなく「恋をしている感覚」なのだ。

恋の感覚を得る為に、人々は今日も「推し活」という名前のついた恋を続けているのではなかろうか。